先週のニュースレターでは、
エネルギーが重く強い他者に対する「感情反応=ジャッジ」
を私がしてしまったために、
共鳴作用が起こり、相手のエネルギーが自分に入ってしまった!(いわゆる生霊)
という実体験を書きました。
しかし、
日常の人間関係のやりとりでは、「生霊」が入ることはそう滅多になくても、
自分自身が嫌な感情、批判的な気持ちを引きずるということは割合あることだと思うのです。
そこで、そういうことの背景に何があるのかを考えてみませんか?
と提案もいたしました。
たとえばこんな例があります・・・。

<ありがちなケース>
ある組織で新人の朋子さんは、主として先輩のA美さんから仕事を教えてもらっていました。
A美さんがお休みのとき、やはり先輩のB子さんから
「そのやり方違うわよ」と言われA美先輩とは違うやり方をするように言われました。
朋子さんは内心
「A美先輩から教わった通りにやっただけなのに…いったいどっちなの!?」
と混乱してしまいました。
しかしその疑問をB子先輩には言えず、そのあと悶々と気持ちを引きずることになりました。
さらには
「この会社の教育体制はなってない!」
とか
「最初からこうなら転職してしまおうか」
などと批判的になってしまいました。
会社の新人に限らず、年齢に限らず、
自分が初めて体験することで違うやり方を教わるということは割合あることですね。
子育てにおけるお姑さんとの方法の違いによるモヤモヤ、地域活動などのグループでの考え方の違いによるモヤモヤ…
などなど人間が2人以上集まれば起こることは多いものです。
朋子さんがB子先輩に
「A美先輩と教えてもらった方法が違います」
と言えなかったのは、
私たちは小さいときから親や大人たち、社会に
「素直さ」
「目上への尊重」
「場の雰囲気を乱さない」
といったことを言語的にも非言語的にも良いこととしてしつけられてきたということがかなり影響しているとは思います。
ところがこのことは
「真理?」
「本質的重要事項?」
と考えたときに、正直「イエス!」とは言い難いことです。
私たちは親の代から時代時代の価値観をあまり疑わないで取り入れてしまっているので、
本質的な、一番大切な「正しい自己愛」に気づかないのです。
それによって「自分の中にズレが起きて」しまうわけです。

自分にずれがないということは、本当はそんなに大げさなことではないんです。
朋子さんのケースで言えば、朋子さんはB子さんにこのように言ってもよかったのです。
「あら、私はA美先輩から違うやり方を習っていたので、
違うと言われて正直混乱してしまっています。
どうしたらいいでしょうか?」
とね。
もちろん、B子先輩に反論しているわけではなく、
ただただA美先輩から教わったことを間違ってると言われて
「困ってます。どうしたらいいですか?」
と答えを求めているだけなんです。
え!そんな単純なこと?
と思われるかもしれませんが、
長年の文化的躾けで
「嫌われたくない」
「自己中と思われたくない」
などの恐れが潜在的にあるので、
こんなにシンプルな問いかけさへできなくなっていることが多いのです(;´Д`)

実は、このテーマを一昨晩、月1回開催している「オンラインサロン」に出させていただきました。
するとある参加者の方が言われるには・・・・
「自分が新人の頃と違い、今の若い人たちは先輩として指導しても、自分が正しいという態度が強いのです。
強く言うとパワハラと受け止められかねないので強く指導も難しくて・・」
という意味のことを言われました。
確かにこのことは今社会で共通に起こっていることかもしれません。
では、こういう時の若い後輩は「正しい自己愛」を持って主張しているのでしょうか?
どうですか?
実はそれは
「正しい自己愛」から出ている発言ではなく、
単なる「自己主張」もっと言えば「自己中的発想」
ではないかと感じるのです。
「正しい自己愛を持つ」もっと言えば「自分の魂に嘘をつかないあり方」というのは、
自分のことばかりでなく、相手をも尊重できる状態をいいます。
なぜなら、
自分のことを本当の意味で大切にする人は、
次に他者のことも大切にすることができるから
です(ここ大事!)

先週のことからまとめていうならば、
感情反応と同時に相手をジャッジしてしまう在り方の背後には
「自分に対する真の自己愛が不足している」
という事実が存在しています。
こころの方程式は
「真の自己愛を持つ人は他者をも尊重できる」し「他者をも愛することができる」
というふうなのです。
だからこの方程式が成り立たないのなら、
一見自己愛に見えるものは実は単なる「自己中」
と思ってよいでしょうね。
自分に関しても他者に関してもこのように判別できるかと思います。
さて、あなたはいかがですか?
それではまたお会いしましょう(^_^)/~
