先週は「自己犠牲とやさしさは違う」という記事を書きました。

ところで、自己犠牲のパターンと並んでわいてくる感情はなんだと思いますか?
一つとは限りませんが、
それは「罪悪感」ではないでしょうか?
自己犠牲のパターンを持った人が「感じたくない感情」の大きなものは
「罪悪感」
だと言っても言い過ぎではないかもしれません。
その罪悪感の下には
「期待に応えられない自分」を認めたくない、
「期待に応えられない自分」とは
「悪い存在」
⇒「生きている価値がないかもしれない」
とまでつながります。
自分が生きている価値がない人間だと感じることは
存在を脅かすのですから
絶対感じたくはないのです。

また人によっては、
相手が「怒り」をぶつけてきたときにその怒りに巻き込まれ、
怖ろしいとさへ感じることもありますでしょう。
この「相手の怒り」への恐ろしい気持ちの奥には、
自分がその怒りを受け入れることもできないし、拒否する勇気も持てない・・・
つまり、
深いところでは自分の「無力さ」を感じ、さらにそれは「みじめさ」につながっています。
「惨めな自分」を感じることは苦痛そのものですから
感じたくないのです。

なぜこの話をしているかというと・・・
アセンション前、
言い換えると「目覚めていない意識」は
「何かから逃げる」ということを日常的にしているからなのです。
・「起きてほしくないこと」(怖いこと)から逃げる
・嫌な人から逃げる
・忙しさ(あるいは暇)から逃げる
などなど。
そして「特定の感じたくない感情」から逃げているのが私たちです。
しかしですねー、
認めたくないと思えば思うほど、その感情はつきまとってきます(>_<)

でも、ここで良ーく考えてみるとですよ?
「生きている価値がない」とか
「惨めさ」とかいうのは
自分の「感覚」に過ぎなくないですか?
決して「事実」とは違い・・・ますよね?
「生きる価値がない」とか「惨めだ」というのは
「一種の妄想」ではないですか?
だって事実ではないですから(^^;
で、ここが大切だと思うのは、
「妄想」は本当は私たちに何の影響も与えるものではない!
だからそれを受け入れてみることが大切ではないか
と思うのです。
よく、「感情は感じ切ったほうがよい」という風にも言われるのは
これに当たるのではないでしょうか?
感情から逃げると、その感情に想像力がどんどんパワーを与えてしまうので、
逆に本当の恐ろしいことになってしまうのではと思えます。
例としての「生きる価値がない」とか「惨め」という感情に勇気をもって向き合うことで、
この作業を繰り返すことで、
私たちが否定している感情は次第にパワーを失い、影響力がダウンしていくのだと思います。

私のカウンセリングでは
今日のようなテーマが浮かび上がってきたときに、
クライエントの皆さんがじょじょに抵抗少なく感情に向き合えるようにサポートしていきます。
根の深い課題が魔法のように一瞬で変わることは難しいですが、
いつの間にか変化して驚くクライエントさんも少なからずおられます。
それではまたお会いしましょう(^_^)/~


